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新テニミュ テニミュの箱庭から踏み出した『中学生』達への試練

「5番コートは鬼以外中学生で埋まる」

先日、ロミオ&ジュリエットのキャストが発表された時、脳裏に浮かんだのは新テニミュ劇中のセリフだった。あの役も、この役も、テニミュ出身の役者。そういえば一昨年のFNS歌謡祭のミュージカル特集もテニミュ出身者が多くて、「実質テニミュ同窓会」と言われていた気がする。テニミュ出身の役者たちがどんどん進出していく。5番コートが鬼以外”中学生”で埋まる。

私は新テニミュにおける中学生を『テニミュという箱庭の世界から一歩出た俳優たち』の二重写しとして捉えている。新テニミュは中学生・高校生・コーチというキャラの年齢の階層を、そのまま新人俳優・経験のある中堅・ベテランという役者のキャリアとしての階層に当てはめているため、「今まで中学生同士で戦っていたキャラクターたちがより広い世界で強敵たちと出会う」という「新テニスの王子様」の物語をそのままメタ構造として解釈できると考えているからだ。そういった新テニミュの構造的な面白さについて今までツイッター上で少しずつ吐き出していたのをせっかくなのでまとめて言語化してしまいたいと思い、この記事を書いた。

 

 

二重写しで捉える余地を与えられた原作セリフ

 「新テニミュ」の二重写しの面白い点の一つは、原作のセリフをそのまま使っている場面でもメタ的な捉え方の余地を与えられている部分があることだ。最初に上げた「5番コートは鬼以外中学生で埋まる」はその一例で、私はこのセリフによって大きな舞台に進出しているテニミュ出身の役者たちを想起させられた。

他にも、「日本テニス界」という言葉が出てくるセリフはそのまま「舞台・演劇の世界」と捉えることができる。例えば序盤で黒部が言う「日本テニス界の底上げを目指しましょう」は新テニミュという場が目指す意義だろうし、終盤の三船の「このガキどもが日本テニス界を変えちまうかもな」もテニミュ・新テニミュが望むことではないかと思う。

 こういった捉え方ができるのは、やはりキャラクターの年齢的な階層をキャストのキャリア的な階層に当てはめているからだろう。

 

徳川を起点とした越前の物語

原作「新テニスの王子様」と新テニミュの大きく異なる点はやはり歌があることで、「新テニ」が新テニミュになることによって追加される情報の大部分は歌詞だろう。次に見ていきたいのはその部分だ。

テニミュは同士討ちで勝利した「勝ち組」の中学生が5番コートを占拠し、3番コートとの試合に臨む物語と、同士討ちで敗北した「負け組」が崖の上で特訓を積む物語の同時進行で進んでいく。まずは負け組側の物語について見ていきたい。

主人公の越前リョーマは同士討ちに参加せず高校生の徳川に試合を挑んで敗北し、同じく鬼に試合を挑んで敗北した遠山金太郎と一緒に斎藤コーチの指示で崖の上に行くことになる。そこで三船という横暴なコーチのもと特訓をする中、珍しく後ろ向きになった越前が遠山と共に歌う。

 ”俺のテニスが稚拙に感じる いいや俺は俺を信じなければ”

”明日という日は来るのか 明日に望みはあるのか”

 原作の越前のことだけを考えると、ここまで後ろ向きになるか?と若干違和感を感じる歌詞だが、『テニミュの箱庭から出た俳優』の二重写しを考えると興味深い歌詞だ。「高校生だかなんだか知らないけどぶっ倒しに来たぜ」と勇んで踏み出した先で出会うのは今までにない強敵である徳川への敗北、今までの自分への疑問。一歩出た先の世界は想像していたよりもずっと厳しい。だが越前はその苦悩の中で答えを出す。

”俺は俺のやり方で戦い続けて行く 見てろよ”

 そして負け組の面々は三船が率いる革命軍となって崖の上から戻ってくる。そこで徳川から越前に掛けられる言葉は「俺も一年前そのジャージを着て戻った」なのである。

ここも原作の展開、セリフを使いながら、メタ構造を想起させる点の一つだ。徳川もかつて、越前が今までやってきたことに疑問を抱き苦悩をしながらも「俺は俺らしく戦う」と結論を出した場所にいたのだ。ここで面白いのは、徳川役を演じているのはテニミュのOBであるという点だ。OBを起用する理由はもちろん新テニミュという初の試みにおいて話題を作る必要があったという部分が大きいとは思うが、こういう効果もあるのかと思った。徳川がかつていた場所、越前が今まさに通ってきた場所は、多くのOB達が通ってきた場所なのだ。

 

「所詮中学生」と言われる現実にどう立ち向かうか

 次に勝ち組の物語についてだ。勝ち組の中学生たちは5番コートを占拠し、鬼と共に3番コートの高校生と試合をすることになる。そのクライマックスとなるのが跡部vs入江だ。負け組側の物語が「強敵と出会ったことにより感じる自分自身への疑念」であるとすれば、こちらで中学生に与えられるのは「他者からの否定」である。

一部を除き、大多数の高校生は中学生を舐めている。「中学生なんてこんなもの」といったような言い回しが劇中で多用されており、特に入江は「君たち中学生にはまだ早い」といった言い回しを執拗に使う。原作セリフの流用のみならず、歌詞の中にも現れる。

”買いかぶりすぎ 所詮中学生”

 この「所詮中学生」が何を意味するのか。二重写し構造を考えた上ではっきりと言ってしまうなら、「所詮テニミュ出身でしょ?」という否定なのではないかと思う。所詮2.5次元、所詮テニミュ。そういった色眼鏡が確実に存在しているのは、テニミュOBの口からも語られている。

okepi.net

上の記事内の、「2.5出身で帝国劇場に立つことについて、そういう目で見られたことはあるか」という欄を参照していただきたい。

しかし入江は、本当に「所詮中学生」だと思って跡部にその言葉を投げかけているわけではない。原作からして入江の行動は跡部に試練を与えていると捉えられるので、これもメタ的に考えるならば、そういった偏見で見られることがある現実の中で、君たちはどうするの?という試練なのだ。

ここで跡部が出す結論は、崖の上で越前が出した結論と同じだ。

”俺は俺のやり方で突き進む” 

 何を言われようとも自分のやり方を否定せずに突き進み、進化を続ける。だからそこ「中学生たち」は鬼のハートに火を点け、入江に「彼らの進化をもうちょっと見続けたい」という思いを抱かせ、三船に「こいつらガキどもが日本テニス界を変えちまうかもな」と言わしめる。

あまりにも美しく、理想的な二重写しの物語だ。これはテニミュ・新テニミュが目指す世界であり、宣戦布告なのではないかと思う。彼ら「中学生たち」が進化を続けて、これからもっと世界を変えていく。だからこの物語の結末に、三船からこの言葉が出てくるのだ。

―さあ巻き起こしてみんかい、革命を。

 

 

(※セリフ、歌詞の引用については記憶に頼っているので多少間違えている部分があると思います。ご容赦ください)