ちょっとブログを書いてみたくなってね。

留学備忘録用に。時々趣味の話。

”ひとり”では自分の存在を見いだせない ミュージカル『テニスの王子様』3rdシーズン青学vs立海後編 1/31ソワレ

テニミュを見てきた。今までにテニプリ自体は新含めて全巻読破してて、テニミュに関しては1stシーズンをDVDでちょこちょこ見てたのと(相葉さんが見たくて笑)3rd立海前編のライビュを見に行ったんだけど、公演自体を会場に見に行くのは今回が初めて。

 

で、全国立海に関しては1stだけ事前に見てたんだけど、その上で今回の公演をみて、セトリはそこまで変わらないながら演出が違うだけでここまで違った物語に見えるのか、と驚いた部分が沢山あったので、今日はその辺を忘れないうちに書いていこうと思う。

主に『越前の物語における幸村精市の描き方』について、1stと3rdを比較しながら。

2ndはまだ見てないのでそこと比較することはできないが、とりあえずこの二つで考えていく。

f:id:ecomarusuisan:20200201192641j:image

 

”ひとり”という言葉

 ここからの話は私の個人的な解釈になるので、何かフィルターがかかっていたら申し訳ないが、一個人の感想として感じたことを書いていこうと思う。

今回の公演を見ていて、私の中で最も印象に残ったのがこの"ひとり”という言葉だ。何故印象的だったのかというと、今回の物語の中心である越前と幸村がともにソロ曲のなかで"ひとり”という歌詞を歌っているから。

今日も明日も一人だけど

(友情のテニスより)

これは試合の途中、幸村が駅で倒れてからのことを回想するシーン。ここで『友情のテニス』の歌詞(『負けることの許されない王者~非情のテニス』のほうが近いかもしれない)の一節が今回挟まれた。

僕は誰 何の為 歩いてる 目的は
僕は誰 何故一人 

(僕は誰?より)

 こちらは越前が記憶喪失になった時のナンバー。この後幸村に五感を奪われた際にも今度は一人称が「僕」から「俺」になって同曲のリプライズがある。

今回の話の中心になる二人は、どちらも今公演で自分が”ひとり”だと歌う瞬間がある。それを念頭に置いてもう少し細かく考察していく。

 

つまらなさそうな幸村精市

どんな見出しやねん。

変な見出しだけど、これが今回の幸村を最初に見た時の率直な感想だ。とはいえ今回オペラグラスを忘れてしまったので(おい)表情までしっかりと見ることはできなかったため、この辺はちゃんと表情まで見ていたら違う見方もできたかもしれない。

が、越前と試合をする幸村を見ていて「幸村めちゃめちゃつまらなそうにテニスするな」とまず率直に思った。

この時点で幸村の置き方が少し1stとは違うように感じた。1stの幸村は「無」だ。テニスをしている幸村に感情はない。彼はただ「常勝する」という掟を死守するために自ら人間性を捨てて無に徹している。

一方で3rdの幸村には感情が見えた。「無」でテニスをしているのではなく「つまらない」という感情が見えている。勝利に固執する一方で、目の前にあるすべてがどうでもよさそうにも見える。

1stと3rdの幸村は、「常勝する」ことに固執する理由が違う。これは越前が天衣無縫になった時に幸村が何を歌っているかから読み取ることができる。

これは生きるか死ぬかの真剣勝負

常勝する それこそ掟

勝つことを 勝つことを 勝つことを

天衣無縫の極みがなんだ 

(天衣無縫の極み より)

 こっちが1stで

試合は勝利だけのためにある儀式

勝って勝ち続けてまた勝って

その結果のみが俺の生きる証

 (辿りつけ、天衣無縫の極み より)

こっちが3rd。2ndもこっちかな。

 1stの幸村が勝たなくてはいけないのはそれが掟であり、守らなければならないルールだから。ルールを課されれば守らなければいけない。要するに責任感が強すぎて生真面目なのだ。

一方3rd幸村にとっては勝つことだけが生きる証。勝つことだけが自分の存在意義で、負ければ自分の存在意義を失ってしまう。

と、彼は思っている(ここ重要)

 そう考えると3rd幸村がつまらなさそうにテニスをすることにも納得がいく。どれだけ最初は楽しかったことでも、それで結果を残すことだけが自分の存在意義であり、失えば生きる意味はないと思ってしまえばどんなことだって苦しくてつまらない。

例えば勉強をするのが好きで得意だった子供がいたとしよう。もし彼が家族に、勉強で結果を出すことしか求められなくなったら?そうしてテストや受験で結果を出すことでしか自分を認めてくれなくなったら?それって苦しいし、つまらないよね。

 

 

 今日も明日も一人だけど

 もうすこし幸村の話を続けよう。

今回印象的だったのが、試合中に幸村が過去を回想するシーン。駅で倒れてから入院中のことを思い返しているのだが、この時照明はほぼ暗転していて人物はシルエットのようにぼんやり見えるのみだ。

回想終わりに立海が『負けることの許されない王者~非情のテニス』の一部分を歌う。ここでは照明は幸村と部員たちにそれぞれサス……だったはず(ピンスポットだったかも。曖昧。)完全にジャージを着た立海の部員たちが映し出されている。なのでここは回想なのか、それとも今現在の部員たちが歌っているのか、どちらとも取ることができる。

ここで幸村が件の歌詞を歌うのだ。

今日も明日も一人だけど

 ものすごく違和感がある。確かに入院中の幸村は物理的に仲間たちと隔てられていて”ひとり”であることは間違いない。だが、今ジャージを着てコートに立っている幸村が”今日も明日も”ひとりだと歌う。

この後に全員で”どんな時でも仲間だ”と歌うので、この違和感は些細なものかもしれない。だがこの小さな違和感が明確なものとして確立した瞬間がこの後にあった。

それが『幸村のテニス』だ。

最初は「幸村結構縦横無尽に舞台上動くなあ」と思いながら見ていた。多分1stではネット周りで越前を翻弄していたのが、今回はかなり広範囲を動き回っているように見えた。

 「幸村の独壇場だなあ」と最初に感じ、そして気づいた。

これは一回しか見ていない私の見間違いだったら申し訳ないんだけど……立海の部員たちって今回基本的にベンチから降りてないよね?

1stだと確か、真田帽子コマンド(違うw)の時に全員ベンチから降りていたはず。だから幸村と部員たちがわりかし物理的に近い位置にいた印象がある。この曲の時はね。

だが3rd部員たちは降りない。だから幸村が動き回るスペースができて、幸村の独壇場になる。コート内に二人いて越前が叩きのめされているというよりは幸村が好き勝手に動き回っている印象。

 

『幸村のテニス』の時、あの世界にいるのは幸村だけ。そんな印象を受けた。

 

セットリストはほとんど変わっていないながら、少し演出を変えたり前に会った曲を少し差し込むだけで幸村の印象が大分変わる。物理的に幸村を部員たちと隔てさせることで、そして今の幸村に”今日も明日もひとり”だと歌わせることで、流れは同じでありながら、仲間に愛され慕われているのに”ひとり”の幸村が見えてくる。

 

表裏一体の幸村と越前

幸村と越前は全く根本が異なる存在ではない。むしろ表裏一体ともいえる。と、3rdでは描いているような印象があった。

それは原作からそうなのかもしれない。試合中、真田が越前についてこうコメントする。

真田「10年に1度の逸材集いし群雄割拠のこの年─

   その時代が創りあげてしまった悲しき産物なのかもしれんな」

テニスの王子様 42巻より)

つくづく真田は特大ブーメラン製造機だよなあ……。そこがいいとこなんだけどさ

越前は「青学の柱」として青学の優勝のための重要な役割を担わされた存在だ。そして幸村はいわずもがな、立海優勝のために一番必要なキーパーソンである。S1で仲間たちを背負う存在として、この二人になんら変わりはない。

そうすると「時代の創りあげた悲しき産物」という言葉は越前に向けられたものでありながら、どこか幸村に通じるところがあるような気がする。勝つことだけが生きる証明、と歌っている少年に。……なあ、真田……(泣)

 

それはそれとして。話が逸れた。

幸村と越前が根本を違える存在ではない、と今回感じたのは、これと同様に越前に向けられた言葉や、越前自身が発した言葉をそのまま幸村に当てはめて考えられるな、と思えるような場面がいくつかあったからだ。

例えば幸村が越前の五感を奪った後、それでもなおもがく越前に向けていうこの言葉

幸村「だれもがもうテニスをするのも嫌になる状況で、このボウヤは……」

テニスの王子様 42巻より) 

 この場面では中央にもがく越前、舞台上手に幸村。幸村には照明が当たっていた。青だったかな。それから越前の『暗闇~僕は誰?』に入るのだけど、この冒頭で幸村はまだ舞台上手にいたような気がする。そんなに長くそこに居たわけではないけれど、暗闇のなかの越前と空間を共にしていると感じるくらいには。

そこで今度は越前が”ひとり”と歌う番だ。

俺は誰? 何のため?
歩いてる? 目的は?
俺は誰? なぜ1人?
このボールは何かを壊すためなのか?

負ける…? 負けたくない!
どうしてこんなに苦しいんだろう?
ああ…どうしてこんなに苦しいんだろう?
テニスってこんなに辛かったっけ?

 (暗闇~僕は誰?より)

 この曲は越前の曲だ。だが、この歌詞を幸村側にあてはめることもできるのではないだろうか。

これは自論なんだけど、幸村の五感剥奪は自分が失ったものを相手から奪っているのだと思う。”次第に自分の意志では動けなくなり” ”テニスをするのも嫌になる”

幸村が越前を閉じ込めた暗闇は、そのまま幸村の見ている暗闇だ。ここで「つまらなさそう」にテニスをする幸村が繋がってくる。つまらないのは、幸村が勝つことだけでしか生きる証を見いだせないからだ。もしそれだけが存在意義なら『幸村精市』ではなく『強い誰か』であればいい。だからこの歌詞が幸村にも繋がってくる。

 

俺は誰?

 

”ひとり”ではない越前リョーマ

越前は暗闇の中で南次郎に出会う。南次郎は一人うずくまる越前をつつきながら語りかける。なあリョーマ、テニス楽しいか。

ここ、確か1stだと南次郎さんはリョーマをつつかないんですよ。回想の中の南次郎に越前が「テニスって楽しい」と答える。これも演出の違いなんだろうけど、3rdでは南次郎が直接暗闇のなかの越前に話しかけて、越前が「テニスって楽しい」と答える。

これ、大きな違いだと思うんだよね。1stの越前は自分自身を振り返って「テニスって楽しい」という答えを見つけ出したんだけど、3rdは他者の問いかけに答えるようにその答えを導き出す。

それから『辿り着け、天衣無縫の極み』と『天衣無縫の極み』がミックスされた曲に入る。

今 夜が明けたようだ
これで昨日とつながった
過去から続く ラリーのボール
これから明日へのサーブだ

(辿り着け、天衣無縫の極み より)

昨日と繋がったのは、南次郎の問いかけに越前が答えたからだ。越前は仲間と、そして戦ってきたライバルの助けが合って記憶を取り戻し、最後に南次郎の問いかけに答える形で天衣無縫に辿り着く。彼らはただ越前が『強い誰か』だから手を貸したのか?いや、彼が『越前リョーマ』だったから手を貸したのだろう。もう一度桃先輩って呼んでくれ、と前編で悲痛な叫びを漏らしていた桃城がそうだったように、他の人たちだってきっとそう。

越前はそんな他者の存在を自覚し、それに自ら答えた。暗闇の中で南次郎に「テニスって楽しい」と答えたように。自分を思う誰かに自ら目を向けて答えているから、越前リョーマは”ひとり”ではない。

 

他の場面でも、ただの『越前リョーマ』と他者とのつながりがみえた場面があった。物語終盤、越前が旅立つ前に部員たちの写真を眺めて一人歌っているシーンだ。その写真に写っているのはテニスをしている瞬間ではなく、何気ない日常のシーンばかり。それを愛しそうにながめる越前には『越前リョーマ』を思う他者の存在が見えている。他者とのなかで『越前リョーマ』をもう確立しているから、自分の強さに依拠し勝つことだけを自分の存在意義にする必要がない。だから越前は「負けてはいけない」という強迫観念に駆られることなく「勝ちたい、倒したい」と思えるし、だからテニスが楽しい。

 

 

3rd『天衣無縫の極み』は幸村を叩きのめす曲ではない

1srの『天衣無縫の極み』では越前にこれでもかというほど照明があたる一方、幸村は完全に影になる。地明かりで照らされてしまう場合には他のキャラの背の影に入るような形になっていたので、これは意図的なものではないかと思っている。

一方3rd、普通に幸村が見える。それどころか、1srだと越前と幸村はネットを挟んでいたのが、3rdだと幸村と同じ側に越前がくる瞬間があった。

その辺を根拠に思った。今回の『天衣無縫の極み』は越前のためだけにあるのではない。表裏一体でありながら未だ暗闇の中にいる幸村へのある種のメッセージも含んでいるのではないかと。

メッセージ性というならやっぱりこの部分が一番強いだろう

楽しいけれど苦しい 苦しいけれど楽しい
忘れちゃいけない 生きてるってそういう事 

(辿り着け、天衣無縫の極み より)

 幸村へのメッセージ性が見えたのはこのシーンだけではない。一番わかりやすいのは真田が準優勝の盾を見つめ去って行った後の南次郎のセリフだ

南次郎「立海大附属ねえ……いいチームじゃねえか。……なあ、幸村くんよ……まあいっか」 

 ここ、公演日によっては「テニスは」「天衣無縫ってのは」と続く日もあったらしいが、私が見た日に限って話すと、「なあ幸村くんよ」と語り掛ける言葉の続きは「いいチームじゃねえか」に続く何かの言葉だったんじゃないか、と感じられた。

南次郎の言うとおり、立海大附属はいいチームだ。みんな『幸村精市』のことを愛し慕っていた。おそらく、これは私の憶測でしかないけれど、関東で立海が勝ちたかったのはそれが幸村との約束だからだ。願掛けのようなものでもあったのかもしれない。どんな手段を使ってでも早く試合を終わらせようとしたのは、幸村に手術前に会いたかったからだ。彼らは誰でもいいから『強い誰か』を求めていたわけではない。最初から『幸村精市』を愛していた。

そうして自分を愛する人たちに囲まれていても幸村が”ひとり”だったのは、皆が求めているのが『強い誰か』だと思ってしまう齟齬が起きていたからだ。関東では勝てなった、俺はみんなを三連覇に導かなくちゃ。そこに必要なのは『強い誰か』で、だから彼の存在意義は勝つことだけしかなかった。

 

越前が『越前リョーマ』でいられたのはなぜか。それは彼自身を求める他者の存在に気づき、答えたからだ。幸村が「俺は誰?」という問いに答え暗闇を抜け出すには、やはり自分を求める他者が『強い誰か』ではなくて『幸村精市』を愛しているのだと気づく必要がある。

 

”ひとり”でいては自分自身の存在を見出すことはできない。”ひとり”というのは物理的に周りに人がいないことだけを指すのではない。周りが自分に向ける思いに気づかない間は、どれだけ愛されていたって”ひとり”だ。

幸いにも幸村は仲間たちに囲まれて愛されている。これってなかなか簡単に得られるものじゃない。あとは幸村が気づくだけだ。

なあ、幸村くんよ。

 

まとめ

要するに何が言いたかったのかというと、大筋や使ってる曲、場面が同じでもこんなに幸村と越前の関係が違うものに見えてくるんだな、ってことです。

ここまで長々書いたのを読んでくれた方もしいたらありがとうございました……。

ところでだけど最後のフィナーレメドレーさ、幸村くんもみんなと同じように越前に勝負だ、とラケットを突きつけてくれるの、救われた気分になるんだよね。

テニミュにはこの続きの物語は無いけれど、皆と同じようにラケットを突きつける幸村くんは、もう"ひとり"じゃないのかな。とか考えたりして。